子どもを災害で死なせないために一人一人がやるべきことー311 大川小学校の教訓から未来を拓く
「子どもを災害で死なせてしまったら」
2011年3月11日の東日本大震災。あの大津波で、多くの人たちの命が一瞬で奪われていきました。あの日の悲惨な景色はきっと今でも多くの人の心に刻まれていることでしょう。

写真出所 東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)
津波で74名の児童と10名の先生の命が失われた大川小学校
でも、今の私たちが実際に大きな災害に備え、命を守るための準備をどれだけできているでしょうか。子育て中の毎日は忙しく、日々の生活に追われて防災対策は後回しになりがちです。
しかし、いざという時に子どもや大事な人、自分自身を守るために、
<死なない、死なせない>
それだけはしなければ、後悔するのは自分自身なのです。
もっとも重要なことは <逃げる> という行動、それだけです。
言葉にしてしまえば簡単なこの<逃げる>ということ。しかし、それが簡単ではなくなってしまう状況が災害時には起こります。
「どうして逃げなかったのか」
3.11のあの日、宮城県石巻市立大川小学校では津波で74名の子どもたちと10名の先生方の命が失われました。テレビの報道でも、何度もこのことは繰り返し流されていたので、記憶にある人も多いことでしょう。
2025年現在、大川小学校の校舎の一部は、石巻市によって震災遺構として整備され、一般公開されています。今回、筆者は現地の大川小学校を訪れ、震災時大川小学校6年生だった次女を亡くし、自身は中学校の教員として子どもたちを導く立場でもあった佐藤敏郎さんからお話を聞きました。
「どうして逃げなかったのか」
佐藤先生のお話から、今ある命を守っていくための教訓として学ぼうと思います。
津波は本当に来るのか?海から離れたこの場所で
大川小学校を地図上で見たときに「こんなところに津波?」という感想を私は抱きました。
海からはかなり離れた内陸で、聞いてみると海までは3.7kmもあるとのことでした。
現地に行ってみると、北上川という大きな川が学校のすぐ近くを流れています。
<津波は川を上ってくる>
このことは、東日本大震災の大津波が起こったことでかなり知られましたが、その前の時点では皆が知ることではなかったでしょう。

大川小学校は、当時のハザードマップでは津波危険エリアになっていませんでした。
しかしあの日、津波は49キロも川を上りました。大川小学校のあたりでは、川幅が狭まり行き場を失った水がより高さと勢いを増していました。津波の高さは8.6メートル。校舎を襲った津波は、教室の2階の天井まで到達しました。

津波は家々や車や多くのものを巻き込んで破壊力を強めました。橋や地形に阻(はば)まれた水は渦を巻き、鉄筋コンクリートをもひしゃげさせるほどの強さになっていました。

あまりの強い力に鉄筋コンクリートがねじ切れた
地震から津波まで約50分、学校のすぐ裏は山
大川小学校のすぐ裏手は山で、子どもたちも毎年登っているという行き慣れた場所でした。
「なぜそこに逃げなかったのか」誰もがそう疑問を持つでしょう。
子どもを引き取りに来た保護者から「津波が来るから山に逃げて!」と言われたり、市の放送でも津波からの避難を繰り返し呼びかけていました。
山に逃げようと言う先生も、子どももいました。
でも、学校全体として逃げようという判断にはなりませんでした。
ようやく逃げる判断ーしかし、津波に向かう方へ
話し合いの末、避難
大川小学校では、「逃げるか逃げないか」が校庭で話し合われていました。〈逃げる〉という判断をようやく学校が取ったのは、津波到達の1分前、地震発生から約50分後のことでした。
学校が逃げたのは、川の少し上流にある橋の方。しかし、そこを津波が迫ってきていたのです。これがもし、山へ逃げていたら、同じタイミングの判断だったとしても、もっと多くの子どもたちが難を逃れられていたでしょう。
避難が遅れた理由「逃げるか逃げないかの判断」
その日、大川小学校には校長がいませんでした。そのため、逃げるかどうか決めるまでの話し合いが長引き、避難が遅れました。
しかし学年末の3月に校長が不在だった学校は他にもあり、避難をして命が助かった学校は少なくありません。トップが不在でも現場だけで速やかに避難を決断できていたら、もっと避難が早くできたことでしょう。
避難が遅れた理由「どこに逃げるかの判断」
大川小学校は、川の上流にある橋を目指し、山と川の間にある細い通路を一列で避難しました。通路はどんどん狭くなり、進めなくなりました。行き止まりのような場所です。
その道は一見すると避難先としてふさわしいように思えたかもしれません。しかし、徒歩で津波から逃げるには距離がありすぎ、適切なルートではありませんでした。
事前に避難先として安全な場所を調べ、適切な避難ルートを選んでいれば、パニックの中でも正しい判断ができたことでしょう。

逃げるかどうか。どこへ逃げるか。逃げろ!
トップ不在でも避難の判断をするには
「逃げるかどうか。どこへ逃げるか。逃げろ!」この3つが大事だと、佐藤敏郎さんは強く語ってくれました。
地震が来てから避難を判断するのでは避難が遅くなります。事前に「大地震の際には逃げること」「どのように逃げるか」ということが決まっていれば、トップがいなかったとしても現場にいる人たちの判断ですぐに逃げることができます。
「念のために避難」が命を救う
大川小は避難が遅れましたが、避難し難を逃れた学校もあります。佐藤さんが勤めていた中学校は「念のために」逃げる判断をしました。
当時、佐藤さんは、石巻市の隣の女川町にある女川第一中学校の教務主任でした。教頭不在であったその日、校長と駆けつけた役場職員の方と先生と、3人が意思決定本部となりました。
中学校は高台に位置していて、ハザードマップでも避難場所とされていたし、「大丈夫だろう」と佐藤さんは言ったそうです。
しかし、校長が「念のためより高いところに逃げよう」と、避難を決断しました。結果としては、先生たちの学校にはギリギリ津波は到達しませんでした。
「念のために」で逃げて、何も起こらなければ、それは良かったこと。災害時は、判断に迷うなら「念のために」逃げておいた方が後悔の少ない結果になるでしょう。
未来を拓くー語り継ぐ事で
佐藤さんは避難して助かりましたしたが、佐藤さんのいた女川町も市街地のほとんどが津波で流されていました。数日後、佐藤さんの妻が高校生の長男を連れて訪れた時、佐藤さんは家族が自分の身を心配して来たと思いました。
「お父さん、みずほの遺体が上がった」
みずほさんは、佐藤さんの次女で大川小6年生。妻の言葉に最初、佐藤さんは「この人、何言ってるんだ」と何も反応ができなかったといいます。
石巻から約30km離れた女川までやってきて、佐藤さんの妻はようやくそれだけ伝えると泣き崩れました。
3月14日の朝、佐藤さんたちは大川小学校まで行きました。たくさんのランドセルが並べられた横にあるブルーシートをめくると、そこには子どもたちが横たわっていました。
全校生徒100名少々という小さな学校で、どの子もどの子も見知った顔です。動かなくなってしまったその子どもたちを、佐藤さんや近所の他の大人たちは身元確認ができるようにとガムテープに名前を書いて腕に貼りました。
「あの時の情景は忘れられません」
そう言った佐藤さんが、どれほどの痛みを超えてきたのか、想像もできません。それでも語り、伝えていこうとする先生の言葉が胸に刺さります。

写真出所 東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)
大川小学校のあった釜谷地区一帯:かつてここには街があった
「大川小学校の校歌には、”未来を拓く”というタイトルがつけられてるんです。校歌にタイトルがあるの、珍しいでしょう」
「ここに保育園とかの小さい子とかが来ても言うんですよ。
『”未来を拓く”って言葉、持って帰って。なんでって聞かれたら”おんちゃんにそう言われたから”って』」
そう笑う佐藤さん。

頻繁に大地震は起きている
2011年の東日本大震災の後にも、2016年熊本、2018年北海道胆振、2022年福島、2024年能登、2025年カムチャッカ半島と、震度6を超える地震は頻繁に起きています。
そして、最悪の場合、東日本大震災の10倍となる29万人の被害が予想される南海トラフ地震も、いつ来るかわかりません。
「逃げるかどうか。どこへ逃げるか。逃げろ!」
この教えはとてもシンプルで、家庭でも、学校でも、幼稚園保育園でも、あらゆる場所で、あらゆる人が、考え、実践できることです。
〈そのとき、私はどうするか〉
そのことを考え、身近な人たちと話し合ってみてください。
それこそが、命を守り、”未来を拓く” 一歩になるでしょう。
—---------------------------------
佐藤敏朗さん
Smart Supply Vision 理事 兼 特別講師 大川伝承の会 共同代表
https://smart-supply.org/speakers/toshiro-sato
東日本大震災当時は、宮城県女川第一中学校(現在の女川中学校)に勤務。震災で当時大川小学校6年の次女を亡くす。現在は、全国の学校、地方自治体、企業、団体等で講演活動を行う。
—---------------------------------
文: うえおかともこ(NPO法人コドモト 代表理事)


